3.郷土出身の偉人たち
第2次世界大戦で旧満州(中国の北部)に取り残された残留孤児の引き上げを民間人の立場で実現させた情熱の人 柏 実(かしわ みのる)さん
 実さんは、昭和14(1939)年、若松郷神部(こうべ)に生まれました。生後二か月の時に、家族で満州に行きました。お父さんが、満州の鉄道で勤めることになったのです。
その間に、弟、妹も生まれて、7人家族で楽しい生活を送っていました。
しかし、昭和16(1941)年、日本は、アメリカや中国と戦争を始めました。どんどん住んでいる所も危なくなってきました。満州で生活して6年目、戦争が始まって4年目、日本は戦争に負けました。その間に、お父さんは兵隊に召集され、お母さんは亡くなり、子どもだけになりました。実さんが住んでいたところは中国やロシアから攻められ、すぐにでも日本に帰らなければなりません。考えに考え、弟妹を中国の人に預け、姉2人と命からがら日本へ帰ることができました。その時、実さんは7歳です。
若松に帰っても、姉弟三人、バラバラで親戚に預けられることになりました。
 昭和29(1954)年、15歳の時、村立若松中学校を卒業証書も授与されないまま卒業し、1人で東京に行き、履歴書の要らない町工場(鉄工所)で働き始めることになりました。
 戦争が終わった後、日本に帰れず中国に残ったままの日本人は、昭和34(1959)年の時点でおよそ13,000人。全員死亡した、ということで発表されました。実さんは、中国に残した弟、妹のことを思い、大変悲しい気持ちになりました。
必ず生きているはずだ、という思いで、昭和53(1978)年、日本の国会議員さんたちや政府に働きかけ、残留孤児(中国に残ったままの人たち)の早期帰国をお願いしましたが、法律がじゃまをしてなかなか話し合いも進みません。
 そこで、自ら、中国政府に手紙を書きました。実さんの熱い思いが伝わったのか、中国政府から返事が来て、そこから少しずつ少しずつ動き始めました。実さんも調査団23人の秘書長として先頭に立ってしつこくしつこく訴えました。
 その成果でしょう、昭和56(1981)年、第一帰国団47名、テレビや新聞で大きく報道されました。今日まで、6724人の孤児を帰国させることができました。
 昭和57(1982)年には、時の総理大臣から、官邸に招かれ、労をねぎらっていただきました。その後、6名の「実務者委員」の1人に任命され、残留孤児のためのたくさんの法制化を実現させることとなりました。
 中国に残していた弟妹への思いから、日本、中国,そして世界を1人の日本人が動かしたのです。
 妹さんは、戦争が終わって41年後の昭和61(1986)年,若松に帰郷することができました。