3.郷土出身の偉人たち
独学で警察署長,佐世保市長になった 小浦 總平(こうらそうへい)さん
[ 旧上五島町副読本から抜粋]
 總平さんは,明治24年7月17日旧浜ノ浦村に生まれました。子どもの頃の總平さんは,大きく丈夫な体で元気に活動していたようです。栗拾いや魚釣りが大好きで,おじいさんとのはえなわ漁で覚えた釣りのポイントでは,釣りに出かけるたびに大漁だったそうです。親思いの總平さんは,日課としてよくお手伝いもしていました。

 その頃,浜ノ浦小学校に高等科がなかったので,榎津小学校高等科(今の魚目小学校)に入学しました。二日か三日に一度は,郵便物を運んで行くおじさんの舟に乗せてもらいました。代わりばんこにろをこぎ,1時間近くかかって青方まで行き,後は歩いて通いました。11月から2月にかけての青方湾の方から吹いてくる北東の風は,身をさすように冷たい上に舟はゆれて進まず,つらかったということです。天気の悪い日や船便のない日は,5時頃起きて陸路を歩きました。朝はちょうちんを持って家を出て,夜の明けたところで道端の家にあずけ,帰りにはそれをもらって,つけて帰ったそうです。今のように道路が整備されていなかったので,人が歩いて自然にできた山道を,八つの峠を越えて3時間近くかかって通ったようです。

 明治39年3月,榎津小学校高等科を卒業しましたが,家庭の事情で進学をあきらめ,家の仕事や漁業の手伝いをしました。 それでも,進学した友達におくれないように,仕事が終わってから,ランプの明かりで進学した友達に借りた古い教科書やノートで遅くまで勉強しました。その頃,心の励みにした言葉は「少年老いやすく学成りがたし,一寸の光陰軽んずべからず…(月日のたつのは早く,まだ若いと思っているうちに年をとってしまうが,学問は満足するまで勉強することはなかなか難しい。だから,若いうちからわずかな時間も無駄に過ごすことなく,学問に励まなければならない。)」という古い中国の教えだったそうです。大学を卒業した人たちと同じくらいの力をつけたいと,大学に進んだ友達からも図書や講義ノートを借りて勉強しました。

 実力を見込まれて,今里尋常小学校三日ノ浦分校の先生をしました。学歴はなくても,実力によって上の地位に進める警察官になる決心をして試験を受けました。合格して巡査になってからも一生懸命勉強して,3年で巡査部長,さらに3年で警部補,そして3年で警部となり,後に警視に昇進しました。その後刑事課長,長崎警察署長,佐世保警察署長等を勤めました。總平さんの家族の方から警察官時代のようすについて次のような話をうかがいました。

 お仕事で疲れて帰ってからも気を取り直して机に向かわれ,夜遅くまで読書に熱中し,總平さんが読んだ本は鼻血のしたたった跡が点々と残されていたそうです。
当時,仕事がうまく行かずやけになっていた人が,總平さんに親身になって力づけられ励まされたおかげでがんばることができ,まわりの誤解から最後まで守ってくれた話などからは,真心をもって人に接するあたたかい人がらを感じます。
 
 總平さんは,昭和12年佐世保市の助役になりました。「大学を出た人が8時間働くときは10時間働いて,大学を出た人におとらない仕事をしよう」と心がけ仕事に励みました。總平さんの評判はだんだん高まっていきました。

 昭和15年,佐世保市長になりました。市役所を訪ねる市民の声によく耳を傾け,誠意をもってこたえました。また「市役所の周りにある小さな店は,市役所を当てにして店を出しているのだから,他の店と比べて高くなかったら近くの店からも買ったらどうですか。」と市役所の人にすすめ,小さな店が困らないように細かく気を配る總平さんは「人情市長」と市民に親しまれました。習字もたいへん上手で,頼まれて佐世保市の小学校の表札をたくさん書いたそうです。

 昭和17年には衆議院議員選挙に立候補し最高点で当選しました。昭和20年8月長崎市に原子爆弾が落とされたときは,ちょうど長崎に出張中で衆議院議員として被爆した人たちを助けるための中央の人たちへのお願いにも,力をつくされたそうです。

 昭和20年日本が太平洋戦争に負けたとき,佐世保市長としてアメリカ軍を相手に話し合ったときのことを,後にコロンビア大学の学長になったアメリカの将校W・シオドア・ドベリーさんは自分の本の中で次のように書いています。
「この人は,心が清く私心がなく,決断力があり,我々の質問にも芯の通った受け答えをする。我々に取り入ろうとするところがないし,それでいて質問中でもなかなか頭のいいウイット(気のきいたことをとっさに言うこと)をとばす…」

 長崎県の小さな離島に生まれ,小学校高等科を出ただけで巡査から身をおこして警視となり,佐世保市長,衆議院議員にまで登りつめた總平さんの努力と後輩に夢を与えた業績は大きいといわれています。

 昭和32年,65才で亡くなりました。長年の功により,勲四等瑞宝章を受賞しました。