3.郷土出身の偉人たち
第50代横綱として活躍した 佐田の山 晋松(さだのやましんまつ)さん
[ 旧有川町副読本、有川町郷土史から抜粋]
 昭和13年(1938)2月17日、佐々田松三郎の4男として有川に生まれ、名を晋松(しんまつ)といいました。

 父松三郎は五島でも名の知れた大工の棟梁で何人もの職人を雇い、よい仕事のためなら損得のことは二の次で、満足のいく仕事をするためには自分一人で徹夜もするほどの職人気質の持ち主でもあったそうです。したがって、家計も裕福というわけにはいかなかったようです。

 このような環境に育った晋松少年は、落ち着きがあって口数も少なく、真面目にコツコツ努力するタイプだったといわれています。

 上五島高校に進学してからは、舗装されていない砂利道を古い自転車で通学しました。雨の日は歩いて七目の山道を越えるなどして、なるべく親に負担をかけまいと心がけ、乗合バスには1回も乗ることがなかったといいます。

 高校3年の12月、上五島青方において、初めて日本大相撲出羽海一門の巡業が行われました。その時、晋松少年は元横綱千代の山の目にとまり、その翌日には急きょ有川を出発するという慌ただしさでしたが、すぐに出羽海部屋に入門し、翌年の昭和31年(1956)の初場所において初土俵を踏むことができました。

 身長1m79cm体重73kgの痩身だった佐田の山関は、持ち前の根性で昭和36年(1961)1月場所の新入幕で大きく勝ち越し上位に上りました。しかし場所前の稽古で足首をねんざして休場し、翌場所は幕尻二枚目まで落ちましたが、奮起して夏場所では12勝3敗と活躍し見事平幕優勝を成し遂げました。有川はこの初優勝に沸き返り、初めての祝賀花火大会が盛大に催されたほどです。

 ついに、昭和40年(1965)初場所で当時大関であった佐田の山は横綱栃ノ海をやぶって優勝すると、長崎県で初めての第50代横綱に昇進しました。「平幕優勝は横綱になれない」というジンクスを打ち破り、大鵬や柏戸とも善戦しました。これはまさしく、不撓不屈の精神による努力精進の結晶であったといわれています。

 現役を引退してからは年寄出羽海を襲名し、名を智敬(ともたか)と改め、協会幹部として活躍しました。平成4年には日本相撲協会理事長にも就任しました。これらのすばらしい功績によって、平成4年、有川町名誉町民の称号を受けました。