2.地域発展につくした先人たち
奈良尾まき網船団の開拓者だった 高村 松三郎(たかむらまつざぶろう)さん
[奈良尾町漁業発達誌、広報「ならお」から抜粋]
 松三郎さんが小学1,2年生だった頃,奈良尾を二つに割るような騒動が起こりました。明治35年の村会議員選挙をきっかけに旧家[網元など支配階級]と八田網衆[乗子]を中心とした郷民派との紛争でした。

 明治42年頃,大敷網[定置網]の漁夫にもなれないくらい支配階級の力が強く,松三郎さんは八田網に乗ることになります。下っ端の仕事にも耐え,風がないときには櫓をこいで沖へむかったといいます。松三郎さんも青年革新組の一員であり「これで一生を終えるものか」という根性と闘志が,松三郎さんを支えていたようです。

 昭和に入り,五島灘でイワシがよくとれたため奈良尾の町はにぎわいを見せました。松三郎さんも,昭和23年に福宝水産という会社を設立します。当時,古野電気が魚群探知機を開発したり,優れた漁網【化繊の漁網)が普及したりと新しい技術も生まれていました。松三郎さんは,県がすすめていた「60トン型標準船」第二福宝丸を進水させ,その船で韓国の済州島(チェジュ島)漁場に出漁しました。この船型で遠洋操業が可能であることをはじめて実証したのです。それまでは,夕方に出漁し翌朝帰ってくる日帰り操業が主でしたが,船を大型化することで魚群を追う長い航海にも耐えられるようになり,新しい漁場の開拓につながりました。

 五島灘でイワシがとれなくなってからは,奈良尾船団は山陰・北陸沖まで出漁するようになりました。その頃,第三福宝丸も水産試験場船つる丸と共に,未開拓の東シナ海漁場で試験操業を行いますが,その時は不成功に終わりました。

 まきあみ漁業の漁獲量が激減する中,福宝水産は遠洋漁場開発のため,網船をさらに大型化[80トン]し,ロラン[位置を示す機器]や方向探知機,魚群探知機などの装備を充実させていきました。そして昭和33年,第三福宝丸は東シナ海漁場の試験操業で記録的な水揚げ高をあげ,注目を集めることになります。船の大型化に伴い一か月もの長い航海が可能となり,その分,往復する船の燃料を節約することができました。東シナ海ではアジやサバもとれ,イワシの不漁をおぎないました。

 その後も,福宝水産はサイドホーラー[ローラーで網をひく]を奈良尾ではじめて導入したり,作業の効率化にも取り組んでいきました。昭和41年には,第八福宝丸[90トン]がキハダマグロ漁のためアフリカ象牙海岸アビジャンにまで出漁した記録も残っています。 

 松三郎さんは,生涯を郷土の漁場開拓に捧げ,新しい装備漁場漁法の研究開発に力を尽くし,産業発展に大きく貢献したことを評価され,昭和37年に黄綬褒章,昭和41年には勲五等瑞宝章を受賞しました。そして,昭和58年名誉町民の称号を受け,平成元年に亡くなりました。
◎ 戦後の大型化に先陣を切った木造船