2.地域発展につくした先人たち
産業を盛んにし倹約や貯金をすすめた 青方 光毅(あおかたこうき)さん No01
[ 旧上五島町副読本から抜粋]

 安政6年[1859]五島藩の江戸家老だった晋太郎さんの3男として,江戸にあった藩の屋敷で生まれ育ちました。


 光毅さんは東京で勉強し,成人してから五島へ帰りました。若いのに選ばれて福江の戸長[村の世話役]をしたといわれますが,明治22年[1889]全国に市町村のしくみがつくられると,青方村[今の上郷小学校と青方小学校の校区の地域]の初代村長となりました。


 そのころ村内の小学校は,ほとんど一般の民家を借りて校舎にしていましたが,光毅さんが村長になると,5カ所あった校舎をそれぞれ作り替えるなど,教育のための施設を充実することにつとめました。


 また,青方と奈摩の間の道路を整えることや,植林を人々にすすめることにも力を入れました。特に,香料の原料として中国へ多く輸出し,農家の現金収入のもととして役に立った「しきみ[はなしば]」の木の造林や増産を図り,売りさばき先をしっかりと確保することにつとめました。このため,その生産額は大きく増し,農産物につぐ収入として大きなはたらきをしました。


 このように,産業をさかんにする一方,自分で先頭に立って,ものを倹約することや貯金をすすめること,また税金を納めることなどを指導してよい成績をあげたので,毎年のように県や国から表彰を受けました。


 このことは「青方村の美風」という題で,明治26年[1893]の頃の小学校の教科書にも取り上げられました。

 光毅さんはその後,県議会の議員や福江村の第4代の村長などもつとめ,五島だけでなく長崎県の発展のためにも尽くしましたが,大正4年[1915]郷里の青方で,多くの人々に惜しまれながら亡くなりました。

 明治26年[1893]11月,そのころの文部科学省が発行した「小学校高等科用帝国読本」[今の国語の教科書]には『青方村農民の美風』という題で紹介されています。


◎ 小学校高等科用帝国読本の表紙
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