2.地域発展につくした先人たち
西洋建築をひろめた 鉄川 與助(てつかわよすけ)さん
[ 旧新魚目町副読本から抜粋]
 明治12年[1879]1月13日旧新魚目町丸尾に,大工の棟梁である與四郎さんの長男として生まれました。榎津小学校[今の魚目小学校]を卒業後,五島の天主堂建築の草分けといわれる福江の野原棟梁の弟子となりました。

 與助さんが20才の時,フランス人のペルー神父が曾根に教会を建てることになり,その仕事を任せられました。この仕事を通して接した西洋建築の技術の高さは與助さんにとって,とても新鮮なものでした。特にリブ・ヴォールト天井をかける技術に驚きました。與助さんはこの仕事で,優れた腕と人物を認められペルー神父に西洋建築術の指導を受けることになりました。この後,與助さんはペルー神父とともに各地の天主堂を建てることになります。

 與助さんが25才の時,鯛ノ浦天主堂の建築に熱心に取り組み,その仕事ぶりは教会関係者にも認められるようになりました。その3年後,與助さんが28才の時,鉄川組をつくり,10人ほどの職人で仕事を始めました。與助さんはおもに設計の仕事をしました。

 明治40年[1907]與助さんの初めての設計による木造の冷水天主堂ができました。翌年には,野崎島に初めてのレンガづくりの野首天主堂を完成させます。今まで木造の建築ではうまく表現できなかった西洋のイメージが,石やレンガを使うことにより装飾にも手がこみ,天井も高くすることができました。そのわずか2年後には,青砂ヶ浦天主堂を建築します。この天主堂は今までにない2段の高さと大きさを持ち,天井も高く内部の空間のとり方も変わり,今までより進んだ建て方で天主堂建築としてすばらしいものでした。五島市の楠原天主堂を建てた頃には,與助さんの名前は長崎までも知れわたり,仕事を頼まれると職人を連れて長崎にも行くようになりました。

 そこで出会ったのがド・ロ神父[1840~1914]でした。ド・ロ神父は與助さんを「テツ・テツ」と呼んで建築についてたくさんの知識を教えました。與助さんは建築の知識だけでなく,建築技術を通して人間としての生き方も学びました。ド・ロ神父との付き合いはわずか3年あまりでしたが,與助さんは学問的にも人間的にも大きな影響を受けました。

 また,浦上天主堂を建てたフルーノ神父[1874~1911]も與助さんに大きな影響を与えました。フルーノ神父は図面を書かず頭の中で考えただけで天主堂を建てるという天才的な人でした。西洋建築にあこがれる與助さんはフルーノ神父の才能に敬服し,その建築技術のすべてを学び取りました。その後,30年の年月をかけて完成した浦上天主堂は,與助さんがドームの部分をつくり,二つの塔をもつ東洋一の大きなものになりました。

 浦上天主堂以外にも,今村天主堂[福岡県]や大水天主堂[新上五島町旧新魚目町]・頭ヶ島天主堂[新上五島町旧有川町]などを建てていきました。頭ヶ島天主堂では船底天井が初めて取り入れられました。今までのリブ・ヴォールト天井は西洋のまねでしたが,この天主堂では新しい作り方が使われました。ついに,外国人神父の教えをもとに,自分のえがく天主堂建築の方法を生み出したのです。
 昭和になり,與助さんはコンクリート造りの手取(てとり)天主堂[熊本県]・紐差(ひもさし)天主堂[平戸市]をはじめ九州各地に次々と天主堂を建てていきました。たくさんの天主堂を建てた與助さんでしたが,それらは1つとして同じものはなく,常に新しいものをつくり出そうと努力した姿が見られます。

 こうして與助さんは明治・大正時代,長崎以外ではなじみの少なかった西洋建築を九州各地に広げるという大きな役割を果たしました。また,天主堂の他にも神学校や病院・学校などの建築にも大きな業績を残しました。與助さんのこのような業績が認められ,県知事表彰[昭和33年]や黄綬褒章[昭和34年]を受け,昭和41年には九州ただ一人,日本建築学会終身会員に選ばれました。さらには,昭和44年秋の叙勲で勲五等瑞宝章も受賞しました。

 80才で引退した與助さんは90才を越しても足腰も丈夫で,耳も補聴器を使うことなく,天気がよく暖かい日には散歩をして楽しんでいました。そして,天主堂建築に生涯を捧げた與助さんは,若い頃からの願いであったヨーロッパを訪れることもできぬまま,昭和51年[1976]7月5日,97才で亡くなりました。
◎ リブ・ヴォールト型天井の木骨
◎ 頭ヶ島天主堂架構図
◎ 青砂ヶ浦教会
◎ 大曽教会